金山城跡(かなやまじょうあと)は、標高約239mの金山全体の地形を活かして築かれた「戦国の山城」。堀切・土塁・石垣・石敷きがよく残り、関東の山城観を塗り替えた存在として知られます。
- 復元整備された大手虎口(おおてこぐち)で「守りの思想」が一発で腑に落ちる
- 日ノ池・月ノ池など、水と石がつくる独特の景観が山上に現れる
- 城主は新田岩松氏 → 横瀬・由良氏 → 小田原北条氏。乱世の生存戦略が凝縮
歩きやすい装備で、時間に余裕を持って。
基本情報
| 名称 | 史跡 金山城跡(太田金山城/新田金山城とも) |
|---|---|
| 所在地(目安) | 群馬県太田市金山町40-98 周辺(国指定史跡の範囲は金山町40-106ほか) |
| 問い合わせ | 太田市 教育部 文化財課(TEL:0276-20-7090) |
| 見学目安 | 主要部だけで1〜1.5時間/じっくりなら2〜3時間 |
| おすすめの起点 | 西城(モータープール)起点が歩きやすい。山麓のガイダンス施設で予習すると理解が深まる |
| 日本100名城 | 2006年に選定。スタンプは南曲輪休憩所(中島記念公園)内 |
まずはここだけ押さえる:歩き方と王道ルート
「遺構の密度が濃い順」に歩くなら、この流れがおすすめです。
- 西城(モータープール)→ 西矢倉台 → 馬場下通路 → 物見台
- 馬場曲輪 → 月ノ池 → 大手虎口 → 日ノ池
- 南曲輪(休憩所・100名城スタンプ)→ 御台所曲輪(大ケヤキ)→ 実城(本丸)→ 金山山頂
11〜12月は日没が早いので、下山時刻は余裕を持って。
見どころ
1) 大手虎口:関東の山城の「石」が語り出す瞬間
金山城の大手虎口は、復元整備によって通路形態が立体的に理解できる名所。屈曲する導線、視界の切り方、石垣の積み方――「正面突破させない」ための工夫が、説明板なしでも伝わってきます。
特に金山城は、石垣や石敷きが多用されることが大きな特徴。発掘調査によって「関東の山城に本格的な石垣はない」とされた定説が覆された、と公式にも説明されています。
2) 日ノ池・月ノ池:山上に現れる“水の景”はなぜ必要だった?
城跡の歩きがいは、石だけではありません。日ノ池・月ノ池は、山城の中では珍しい「水の存在」を強く感じさせる場所。籠城に必要な水の確保という実利はもちろん、曲輪(くるわ)ごとに水を抱えることは、火災への備えや生活のリズムにも直結します。
3) 実城(本丸)と眺望:なぜこの山が「政治の場所」になったのか
山頂の実城(本丸)まで上がると、視界が一気に開けます。文化財データベースの詳細解説でも、眺望が開け、関東平野を一望できることが言及されています。守りの城であると同時に、周辺を“見張る”城でもあった――地形がそのまま答えになっています。
歴史を掘り下げる:戦国乱世で「滅びない」ための金山城
序章:築城は文明元年(1469)――主役は新田岩松氏
金山城の始まりは、文明元年(1469)。太田市の略年表には、1469年2月25日に築城の地鎮祭が行われ、築城代官を世良田長楽寺の住僧・松陰軒西堂が務めたこと、さらに同年8月に岩松家純が金山城に入ったことが記されています。
城が生まれた背景には、関東の権力バランスの揺れがあります。金山は「守る場所」であると同時に、「交渉の拠点」でもありました。
第一幕:主君が揺らぐと、城も揺らぐ――下克上(享禄の乱)
金山城の城主はやがて新田岩松氏から、重臣だった横瀬氏へと移ります。略年表では、1528年ごろ「横瀬泰繁・横瀬成繁が主君岩松昌純を殺し実権を握る(享禄の乱)」と明記されています。戦国が“身分を溶かす時代”であることを、これ以上なく端的に示す一行です。
下克上は、単なる野心の物語ではありません。守るべき領地があり、周囲の大勢力がせめぎ合う中で、意思決定が遅い主家はリスクになり得る。横瀬氏は、城の運用と軍事の主導権を握ることで、生存確率を上げようとした――そう読むと、金山城は「権力の交代」を映す舞台にもなります。
第二幕:由良成繁という“強かさ”――武力だけでなく、正統性を買う
1565年、横瀬成繁は将軍足利義輝から「刑部大輔」に任官され、御供衆に加えられた、と略年表は伝えます。そして同年ごろ、横瀬成繁は「由良」に改姓したとも記されています。
この改姓と官途は、交渉の通貨でもあります。従うにせよ抗うにせよ、“大義名分”があるほど選択肢が増える。由良成繁の強かさは、武力と政治を同時に回した点にあります。
第三幕:上杉・北条・武田――関東のパワーバランスに呑まれない
略年表には、1569年に上杉謙信と北条氏康が和睦し「越相同盟」が成立したこと、しかし1571年ごろに北条が上杉と絶交し武田信玄と和睦して同盟が破綻したことが記されます。つまり、周辺の“巨大な駒”が動くたび、金山城の立場も変わる。
1574年には上杉謙信が金山城攻めのため藤阿久に陣を張ったこと、同年秋に金山城で上杉軍と戦ったことが年表に残ります。さらに同年11月、謙信が利根川を越えて周辺を放火し、金山城に迫ったとする記述もあります。金山城が最前線だったことが、ここで確定します。
第四幕:城を守るのは“武将”だけじゃない――妙印尼(みょういんに)の籠城
1584年、由良国繁・長尾顕長兄弟が北条に従わないことを理由に糾明され、由良国繁は城の破却や在府(人質に近い措置)を命じられた、という緊迫した一節が略年表にあります。ここで登場するのが、兄弟の母・妙印尼。年表には、妙印尼をはじめ一族・家臣が「籠城」したことが記されています。
戦国史で見落とされがちなのは、「家を残す」という目的のために、城の主役が入れ替わる瞬間です。交渉し、耐え、時に引く。妙印尼の籠城は、金山城が単なる軍事拠点ではなく、“家の存亡を賭けた政治装置”だったことを教えてくれます。
第五幕:北条直轄へ、そして小田原征伐――金山城の終章
略年表では、1585年ごろまでに金山城が開城し北条に降伏したと考えられること、1587年には北条が清水正次を金山城主に命じたことが記されています。金山城は、ついに北条の運用下に入ります。
そして1590年。北条氏直が小田原へ参陣を指示し、籠城に由良国繁・長尾顕長兄弟も加わったこと、同年5月2日に豊臣秀吉の家臣(前田利家ら)が金山城を接収したこと、さらに8月に由良氏が豊臣秀吉から常陸国牛久に知行5435石を与えられたことが略年表に示されています。これが、金山城の“廃城(天正18年)”につながります。
金山城は落ちたのではなく、時代の大転換(関東の支配構造の入れ替え)の中で役割を終えた。だからこそ今、遺構が濃い形で残り、歩いて読めるのです。
現地で“生き様”を掴むコツ
- 虎口は「敵の視点」で歩く:曲がるたびに視界が切られ、攻め手の集中力が削がれる感覚がわかる
- 池は「籠城の現実」を想像する:水があるだけで守りの設計が一段上がる
- 年表の年代を1つだけ覚えて行く:1469(築城)/1574(謙信の攻勢)/1584(妙印尼の籠城)/1590(終章)。歩きながら点が線になる
- 山麓のガイダンス施設で“予習→現地→復習”を回すと満足度が跳ね上がる
ガイダンス施設もセットで
金山の南麓には、金山城の歴史を学べる「史跡金山城跡ガイダンス施設」があり、2009年に開館しています。建築家・隈研吾氏の設計で、外壁に石垣をイメージした石板が配置されている点も見どころ。展示で予習してから登ると、遺構の読み解きが一気にラクになります。
利用時間:9:00〜17:00(入館受付16:30まで)/休館:月曜(祝日の場合は翌日)ほか/入館料:無料
FAQ
- Q. 初心者でも歩けますか?
- A. 主要部をゆっくり見て回るなら1〜1.5時間が目安。舗装路(管理用道路)を使えばモータープールから実城まで片道15分ほどと案内されています。山道に慣れていない場合は、無理せず明るい時間帯に。
- Q. 日本100名城スタンプはどこにありますか?
- A. 南曲輪休憩所(中島記念公園)内です。山麓のガイダンス施設には設置されていないので注意。
- Q. 駐車場はありますか?
- A. 市営駐車場(無料)が複数あります。大光院駐車場(120台)などのほか、ガイダンス施設駐車場(11台)も案内されています。
- Q. 子ども連れ・ベビーカーでも行けますか?
- A. 遺構の園路は段差や未舗装区間があります。ベビーカーは山麓のガイダンス施設中心の見学が安心。山上は抱っこ紐+歩ける靴がおすすめです。
- Q. ベストシーズンは?
- A. 新緑(4〜5月)と、空気が澄む秋〜初冬(10〜12月)が眺望も気持ちよくおすすめ。11〜12月は日没が早いので観覧時間に注意と案内があります。
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